東北アジアの法と政治―21世紀を展望する(04・12・13脱稿)

「花岡事件」和解から西松中国人強制連行事件広島高裁判決への道のり

−日中関係の「壁」を乗り越えるために

                          新 美  隆(にいみ・たかし)

花岡和解の成立の意義

 2000年11月29日、文字通り20世紀が終焉を迎える時期に、東京高等裁判所において花岡事件訴訟についての和解が成立してからすでに4年の時が経過している。この和解成立に至る訴訟上の経過、和解内容、日中間で初めて成立した意義等のほか、和解に対する内外の反響、特に中国の一部に見られた稍々狭隘ともいえる反発を含めて既に詳細に論じたところである(専修大学社研月報459号所収、和解条項等の資料についてもほぼ重要なものがすべて掲載されているので参照されたい。)。この筆者の論稿だけでなく、中国側の法学者、歴史学者等の専門家の花岡和解についての分析を加えた論文集(「強?・訴訟・和解―花岡労工惨案始末」)が、2002年9月に中国・学苑出版社から刊行され、一定の評価が固まりつつあると解される。しかし、依然として、花岡事件の和解解決に対する感情的反発が一部に残っていることも事実である。

 上記の論稿でも強調したように、花岡和解によってカバーしうる被害者は、中国人強制連行被害者の全体数約4万人からすればわずかであり、ひとつひとつの解決の積み重ねの中から全体解決を展望するほかない。和解成立から4年経過した現時点においても、全体解決を具体的に見通すところまでには未だに至っていないが、和解基金(花岡平和友好基金)事業の進展だけでなく、中国人強制連行訴訟をめぐる動きには、10年前には想定し難かった発展もあり様々な意味から関心が寄せられるべきである。

 総じて言えば、花岡和解の意義と影響は、この4年を通じて決して色あせるどころか、ますます大きなものがあると考えられる。現時点に立って花岡和解の意義を確認すれば、次の点が挙げられる。

@ 全体解決を目指したこと

  花岡和解条項の法的構成上の最大の特質は、裁判所自身も画期的と評価したように、信託方式を採用して、歴史的被害者全体の解決を目指した点にある。代表訴訟制や団体訴訟制を知らない日本の法制下において、11名の原告による訴訟の中で、花岡に強制連行された986名の被害者全体を包括する解決をはかるには、訴訟上の和解の中に信託法を適用する以外の方法では困難であろう。交通関係上の問題もない現在の国内訴訟においては、被害者を組織化して、第一訴訟、第二次訴訟とつなげていくか、和解協議の段階において、訴訟当事者とならなかった被害者を利害関係人として和解手続に参加させることが可能であろう。しかし、半世紀以上も前の、生死も所在も不明で歴史的資料としての名簿のみが存在するばかりの状況のなかで、全体解決を目指すことを可能にした実例を残したことは大きな意義がある。

  このような方式を実現した源泉は、ひとえに花岡訴訟の原告となった中国人生存者・遺族の意思にある。これらの人々は、当初より自己の個人的利益だけでなく同じ受難に遭遇した被害者全体の解決を必須のものとして望んできたし、このような歴史認識(中国人強制連行事件は、単なる個人被害をもたらしたものではなく、日本の中国侵略によって中国人民が被った被害の一部であること)に支えられた原告らの高い志向が、多くの日本人に感銘を与えてきた。このような中国人原告の志向・要求がなければ信託方式による全体解決という花岡和解の構成が案出されることはなかったのである。

A 日中間の合作の成果ということ

花岡和解は、東京高等裁判所の積極的なイニシアチブがあって成立したことは、1999年9月の職権和解勧告に始まり、1年以上の協議を経た経過からも明らかであろう。裁判所が、和解解決の可能性に着目したのは、1990年7月5日に花岡事件被害者の有志と鹿島建設との間で合意された「共同発表」である。「共同発表」では、鹿島建設は、中国人強制連行・強制労働の歴史的事実を認め企業責任を自認して、中国人生存者・遺族に謝罪し、残された賠償問題については、周恩来総理が日中国交回復にあたって述べた「前事不忘後事之師」との精神に基づいて早期解決をめざすことを約束した。東京高等裁判所は、この「共同発表」を基礎にして和解解決をはかろうとしたのである。しかし、前記の全体解決を希求する原告の意思からすれば、和解条項の構成が具体化するためには更に重要な条件が満たされる必要があった。それは、前述の信託方式を採用しうるためには、公正・中立な公的団体が信託の受託者として和解手続に参加することが必要不可欠であったことである。中国紅十字会総会(以下、単に中国紅十字会という)が、1999年12月に和解手続に参加することを決定したことの意味はこの点にある。この参加決定がなければ花岡和解が成立し得なかったことを考えれば、外国での訴訟手続に中国紅十字会を参加させるという先例のない課題を決断した中国関係当局の、大局を見据えた判断の的確さが評価されるべきである。この意味では、花岡和解は東京高等裁判所の積極的な訴訟指揮と中国関係当局が呼応した、日中間の合作の成果ということができる。

B 解決の現実的可能性を示したこと

花岡和解は、日中間の戦後補償問題の中で初めて成立した和解解決事例である。初めての事例がいつもそうであるように、幾多の困難を関係者の勇気・決断によって克服し、ようやくにして実現したものである。訴え提起(1995年6月)に先行する長い自主交渉の期間を含めれば十数年の経過がある。筆者自身を含めて、1980年代後半から花岡事件問題に関わった人たちは、長い間、暗闇に向かってボールを投げるが如き無力感を味わわされた。それだけに、花岡和解の成立は、多くの関係者にとっても、「無」から「有」が生じるような衝撃であった。現時点からすれば、ますます明らかなように、花岡和解がその後の、戦後補償問題の解決を求める闘争に及ぼした最大の役割は、日中間の戦後補償問題(戦争遺留問題)の解決は、日中友好の観点に立ってなされなければならず、かつその観点から障害を克服する努力を尽くせば、過去の歴史課題も現在において解決することができることを示したことにある。花岡和解の成立は、花岡事件被害者以外の中国人戦争被害者や日中の多くの市民・研究者等の有志の人々に、戦後補償問題が解決可能であるとの確信を抱かせ、闘争への激励となった。全体解決を目指すという花岡和解を貫くモメントの意義は、戦後補償問題の解決のための活動が、被害者個人の利害にとどまらない大きな歴史的役割(日中友好の基礎となる人民レベルの信頼回復)を担うものであることを改めて指し示したと言える。

ここで忘れてならないのは、花岡和解が影響を及ぼした関係者の中には、戦後補償裁判の衝にあたる裁判官も含まれていることである。花岡和解が、現実に、東京高等裁判所の、一定の確信に支えられた1年余の忍耐強い努力の結果、成立したという事実には、決して無視できない重みがある。花岡和解成立後、特に中国強制連行訴訟の領域では、従来の「法の壁」を突破するような判断がいくつも出現しているが、これは、上記事実が、日本司法を担う裁判官に戦後補償問題の解決を法的課題として認識させ、法解釈の努力を促したものと考えられるのである。戦後補償問題が、日本司法にとっても解決しなければならない課題とする裁判官の自覚(価値判断)は、ありきたりな形式的解釈にとどまることを許さず、中国人強制連行の歴史的実態に即した事案の解明と解釈を生み出すことに結びついている。

花岡和解成立後の中国人強制連行事件をめぐる動向について

 花岡和解は、訴訟上の和解という性質からして中国人強制連行事件をめぐる法的命題についての裁判所の判断を明示するものではない。そのために研究の対象として種々の角度からの分析・検討が必要であり、積極的に和解を指揮した東京高等裁判所の法的認識(心証)を推断することも重要である。その際には、日本の法制度や訴訟実務を前提にした合理的な検討がなされなければならないし、和解成立に至る経過をも分析の対象にする必要がある。前掲の専修大学社研月報459号の特集「花岡事件訴訟和解の歴史的・法的意義」は、素材を提供しつつ研究の方向を示す試みのひとつであった。同特集に掲載された筆者の論稿でも触れたように、花岡和解に対する特異な言説が中国の研究者にも見られたことは、日中関係を反映した中国側の不信感が根底にあるとはいえ、花岡和解の意義をないがしろにする危険性がある。声高な非難(ほとんどが、単純な誤解か意図的な歪曲の類に基づくものであるが)こそ姿を消したものの、その痕跡は花岡型和解を目指す動きに水を差すという影響を少なからずもたらしたことは否めない(逆説的にいえば、このことが、より明確な裁判所の判断をもたらしたこととなった面がある。)。

 しかし、上述した花岡和解の基本的衝撃力は、その後の中国人強制連行をめぐる動向の中に生き続けていると言える。花岡和解は、それ自体が孤立したものではなく、和解によって設立された花岡平和友好基金(以下、花岡基金)の事業による和解実現過程を通じて、また他の中国人強制連行事件訴訟の進展を通じて、より客観的に検証されうるものと考えられる。

 そこで、以下、本稿では、花岡基金事業の概略を述べ、さらに訴訟の動向として同じく筆者が訴訟代理人として関わった2004年7月9日の西松訴訟広島高裁判決に至る流れを概観することとしたい。

 なお、上記広島高裁判決後の、2004年9月29日、大江山ニッケル鉱山強制連行事件について、花岡和解に続く二件目の訴訟上の和解が大阪高等裁判所で成立したことが報じられている(当事者は、被害者6人と日本冶金工業)。花岡和解成立後、約4年近くを経た初めての和解事例である。裁判所が、和解条項に附した前文では、次のように記載されている。

 「当裁判所は、控訴審裁判所として本件を審理してきたところであるが、第二次世界大戦の終了から60年、本訴提起から6年が経過し、控訴人らも高齢になっていることに思いを致すと、更なる長期審理を回避し、本件の早期解決を図ることが何よりも強く望まれるものと考える次第である。そこで当裁判所は、下記和解条項をもって当事者双方が和解を成立させ、本件を早期に解決することが最善と思料し、本件和解を勧告した。

 控訴人らは、京都地方裁判所で、強制連行・強制労働の事実とその違法性が明らかにされたものと考え、かつ、被控訴人国が和解による解決に全く同意しようとしないなかでの被控訴人会社の誠意を評価し、裁判所の和解勧告に応じ、和解条項を受け入れることとした。

 被控訴人会社は、本件に係る争いを直ちに終了させ、本件の早期解決を図ることが何よりも重要であるとの裁判所の考えに賛同し、かつ、本件訴訟を和解によって解決することが、被控訴人会社において存在したとされる強制労働問題の全面的な解決となり、今後、問題の紛争が惹起されることはないと期待して、裁判所の和解勧告に応じ、和解条項を受け入れることとした。」

そして、和解条項では、被控訴人会社(日本冶金工業)が、被害者控訴人6人(うち2人については遺族訴訟承継人)各人に対し、「本和解の席上で、本件解決金として金350万円を支払い」控訴人らがこれを受領したことが確認され、その他は実務上の常套文言となっている(その余の請求権放棄、債権債務不存在確認各条項等)。

この事例で留意すべきことは、本和解が和解条項中にも前文においても花岡和解がその特質とした全体解決の方向性が示されていないことである(前文では、被控訴人会社の、本和解をもって全面解決となるとの期待すら記載されている。)。にもかかわらず、弁護団声明によれば、「限界はあるが全面解決に向けた一里塚となるもの」とされ、中国関係方面では、加害企業が自ら明確に謝罪していないことを深く遺憾としつつ、同和解を理解し支持する、との表明がなされている。もしも、花岡和解の成立という先例がなく、この大江山ニッケル鉱山事件の和解が初発のものとして成立したと仮定すれば、どのような反発や非難が中国側からなされたかを想像するに難くない。この意味では、本件和解は、花岡和解成立以降、中国人強制連行事件が最早、問題提起段階ではなく、現実的(個別)解決が可能となる段階に至ったことを象徴するものと言いうるのである。それにしても、折角の和解解決の機会でありながら、訴訟当事者となった被害者だけでなく、判明している大江山ニッケル鉱山に強制連行された被害者を和解に参加させて同じ解決の利益を享受させる方策をとる余地がなかったかどうか、と思われる(報道によれば、大阪高裁が和解を勧告したのが2003年12月というのであり、和解成立までには相当長期間の協議がなされたことが窺われることから、被害者調査の余裕があったのではないか、と考えられる。)。

花岡基金事業の概略

 花岡和解条項に従って、利害関係人として和解手続に参加した中国紅十字会は鹿島建設が信託した金5億円を「花岡平和友好基金」として管理・運用することとなり、中国紅十字会の下に、「花岡平和友好基金運営委員会」(以下、運営委員会)が設置されることになった。この花岡基金の目的は、「日中友好の観点に立ち、受難者に対する慰霊及び追悼、受難者及びその遺族の自立、介護及び子弟育英等の資金に充てる」とされ(和解条項四−3)、運営委員会は、「受難者及び遺族の調査のために、本件和解の趣旨について、他の機関、団体の協力を得て周知徹底を図るものとする」(同四−7)とされた。運営委員会を構成する委員は、訴訟当事者となった控訴人(原告)が選任するのであり、訴訟上の和解を成立させた被害者の意向が運営委員の選任を通して反映する構成となっている。

 和解成立直後の2000年12月に北京で開かれた会議において、6名の委員が投票によって選出された。うち、2名は、被害者生存者代表と同遺族代表である(なお、筆者は、訴訟代理人団を代表する委員の一人に選出された。)。

 選任された運営委員会委員は、早急に運営委員会を立ち上げるべく(和解報道が中国国内で報道されるや、被害者家族等からの電話や手紙が中国紅十字会に殺到し、早期の事業開始が強く求められた。)、2001年3月に北京に参集し、第1回運営委員会を開催し、田中宏教授(龍谷大学)を委員長に選出したほか、組織規定をはじめ各種の決議を行った。さらに、同年5月には、北京市東城区干面胡同の中国紅十字会賓館内に北京事務局を開設し、事務局員を雇用し事務局体制を整え、実質的に活動を開始した。活動開始後の最初の基金事業は、同年6月28日から7月5日までの間、生存者・遺族30名以上が、故地である秋田県大館市主催の中国人殉難者慰霊式に参列するとともに、大館市民をはじとする多くの日本人との交流を実現する慰霊事業支援を行ったことである。この慰霊事業支援は、SARS問題で中止を余儀なくされた2003年を除き、これまで3回にわたって実施されている。

 また、受難者およびその遺族の調査、さらには信託金(賠償金)の支払のために、2001年夏までに、花岡和解の成立経緯、趣旨、適用対象(特に遺族の範囲)等についての説明のほか、申請書式を備えたパンフレット(「花岡和平友好基金説明」)を印刷・配布を行った。運営委員会は、現在まで13回の会議を開催し、中国国内での基金事業を進めるに際しての諸課題について協議し、被害者の認定や様々な計画の実施方策等を決議してきている。いずれ、この運営委員会の詳細な活動記録を作成し公表する予定である。和解条項の確認をもって終了する通常の訴訟上の和解とは異なり、被害者の探索調査を予定した和解に基づく運営委員会の活動記録は、歴史的にも先例がないだけに貴重なものになると考えられる。受難者の調査にあたっては、前掲の和解条項にも記載されたように、中国国内の各種機関・団体の協力を得たが、中でも各地域のメディアの果たした役割には多大のものがあった。基金事業を報道する番組の最後には、必ず、連絡先として北京事務局の電話番号等が掲げられ、報道終了後には、事務局の電話が鳴り止まない光景が繰り返された。

メディアを通じた広報ばかりでなく、様々なチャンネルが活用された。また、被害者の最大数を占める山東省について言えば、山東省特別調査嘱託員を採用し、同嘱託員は、名簿をたよりに村々を訪ね歩き、古老から聞き取りを行いながら被害者調査を継続した。名簿(外務省報告書、事業場報告書を基に作成されたもの)は、50年以上も前のものであり、後難を恐れて仮名にしたものや、出身地を違えたものもあり、現地調査の困難さは、戸籍や住民記録が完備した日本国内の状況とは格段の相違がある。

 第13回運営委員会(2004年9月)時点までの、花岡基金の活動実績から信託金(賠償金、一人当たり25万日元)と助学金(奨学金、一人5000中国元)の交付状況を記せば次のとおりである。

 (信託金)

@判明した被害者総数  502名

  A運営委員会が要件を具備するものと確認したもの 460件

  B既に交付済み     447件

  C和解に同意するが、個人として受領せずに寄附を申し出ているもの 1名

  D和解に賛同せず、受領を拒否するもの(当事者)  2名

  E和解に賛同せず、申請手続をとらないとするもの  7名

 支払実施状況  2001年9月27日を第1次とし、2004年9月17日まで12次にわたって集団支払

       注:上記のうち、中国国内での和解非難の影響を受けて、和解への同意をせず、又は受領を拒否しているものは、DとEの計9名である。

        (助学金)

        交付済み    433件

        支払実施状況   2003年8月7日を第1次とし、2004年6月2日まで8次にわたって集団的に支払

 上記の信託金交付状況から判明するように、インターネットを活用して、声高な花岡和解非難を繰り返した一部の人々の影響を受けて、和解条項の信託上の権利を敢えて行使しない人は、9名であり、圧倒的多数の被害者は、和解を受け入れているのが実情である。

  また、花岡基金事業として重視されている柱のひとつに、花岡事件に代表される中国人強制連行の歴史を後世に伝え、研究・交流の基地ともなる紀念館建設事業がある。この紀念館建設は、従前から被害者の強い念願であった。日本側でも、大館市のNPO組織を中心として大館現地に記念館を建設する募金活動も始まっていて、運営委員会としても中国北京市に記念館を建設する計画を立て、関係当局と折衝を重ねてきている。建設が実現すれば、中国人強制連行に関わる各種の歴史資料だけでなく、被害者のデータ記録が集中され、研究者にとっても貴重な資料を提供する研究センターとなるばかりか、被害者遺族のとどまらず日中の若い世代に対する格好な教育機能を果たすことが期待される。

  このようにして、花岡基金事業は、一部の反発に遭遇しながら、中国国内での被害者調査や信託金等の交付、さらには大館市主催の慰霊式への参列に対する支援事業を通じて花岡和解の趣旨を押し広げてきたものであり、着実にその成果をあげつつある。かつ又、紀念館の建設が実現すれば、運営委員会の活動を超えて、長期にわたる日中友好への寄与を果たすことができよう。

       中国人強制連行事件訴訟の動向

        花岡和解(2000年11月29日)以降、前述のように中国人強制連行事件訴訟について、一方では事実認定に立ち入らず、時効・除斥や国家無答責の形式的判断によって事実上門前払いのような判断をする裁判例と同時に、従来の「法の壁」を突破するような裁判例が出現し始めた。裁判の実践的法創造機能からすれば、中国人強制連行事件の実態に即した法解釈が要請されることは、当然のことである。従来、日本国内の市民間の交通関係を暗黙の前提として立法され、解釈されてきた時間規制法理(時効・除斥期間)を、そのまま中国人被害者の権利に無反省に適用することが、いかに非条理な結論をもたらすかについて無自覚過ぎたとも言える。中国人強制連行は、国際法上も許されない違法行為であり(花岡事件についてのBC級戦争犯罪を裁いた横浜法廷判決参照)、現在まで被害の痛みを癒されないままにきた被害者を前にして、彼らに対して現実的妥当性をもち得ない概念法学を振り回すかのような裁判官に代わって、事実に即した法的判断をなさねばならないと苦慮する裁判官によって、新たな動向が作り出されてきたわけである。

        花岡和解以降に、中国人被害者が勝訴(一部勝訴を含む)した判決例としては、次のものがある。

        A1 福岡地裁判決(02・4・26)

        B 新潟地裁判決(04・3・26)

        C 広島高裁判決(04・7・9判例時報1865−62)

  この中で、A1は、中国人強制連行事件について、企業(三井鉱山)に対する損害賠償責任を初めて認めたものであり、この訴訟の控訴審判決には、大きな期待が寄せられ、内外からも注目を集めた。福岡高裁判決(04・5・24、以下A2と表示する。)は、原告らの国、企業に対する請求をいずれも退けたが、中国人強制連行訴訟に関する最初の高裁判決として、関連訴訟全体の帰すうを考えるうえで決定的な役割を果たすものと見られたわけである。いま、いずれも国と企業を被告とする、A1,B,A2の3件の判決を分析すると以下のようである(なお、Bは国、企業の責任を認め、Cは企業の責任を認めたものである。)。

  この3件に共通する認定判断としては、いずれも主として外務省報告書、事業場報告書等に依拠して中国人強制連行の歴史的経緯を踏まえ、強制連行・強制労働の事実を認定していることを指摘できる。このことは、それまでのように事実認定に立ち入らず、法的要件のみの判断で事足りるとしたものとは質的に異なり、法的争点についての積極的な法解釈もこの事実認定の然らしめるものという分析が可能と思われる。中国人強制連行についての歴史認識は次第に裁判所部内において定着しつつあるという感を抱かせるのである。

  主要な法的争点についての判断を3件の判決について列記すると以下のとおりである。

(国家無答責)

  A1 強制連行・強制労働は、日本国の軍隊による戦争行為という権力作用に付随するものとして、国の権力的作用に該当し、国家無答責の法理が適用され、民法の適用もなく損害賠償責任の実体的根拠がない。

  B 戦前において国家無答責の法理が存在していたことは認められるが、行政裁判所が廃止され、公法関係及び私法関係の訴訟がすべて司法裁判所で審理される現行法下では、この法理の合理性・正当性を見いだし難い。本件強制連行・強制労働のような重大な人権侵害が行われた事案について、裁判所が、公権力の行使には民法の適用がないという戦前の法理を適用することは、正義・公平の観点から著しく相当性を欠く。

  A2 国家無答責の法理は、実体法に根拠づけられたものではなく、大審院の判例法理にすぎず、判例も同種の事実、事件に対して事実上の拘束力を持つにすぎないから、国は民法上の責任(不法行為責任)を負う。

(除斥期間の適用制限)

  A1 除斥期間の適用の結果が、著しく正義・衡平の理念に反し、その適用を制限することが条理にもかなうと認められるときは、適用制限がなされる。

  B 平成10年最高裁判決の「特段の事情」とは、法意等を援用すべき明文規定(例えば、平成10年判決の民法158条)という拠り所を有するものでなければならず、正義・公平という理念のみから除斥期間の適用を全面的に排除することは、法律の明文規定を無視することに他ならず、解釈の域を超えると言わざるをえない。本件事案には、除斥期間の適用を制限できない。

  A2 平成10年最高裁判決を、正義・公平の観点を、法的安定性よりも重視すべき場合がありうることの一例を示した事例判決と把握し、除斥期間の適用制限をすべき特段の事情の考慮要素として4点を提示する。しかし、中国で私事による出国を認める公民出国入国管理法が施行された1986年2月1日以降は、権利行使が可能になったと解され、原告が最も早く提訴した2000年5月までには、すでに14年、不法行為終了から55年が経過しているので、「被害者が権利行使が可能になってから速やかに権利を行使したこと」との考慮要素を具備しないので、除斥期間の適用を制限しなければならない特段の事情は認められない(従って、国、企業の不法行為に基づく損害賠償請求権は、除斥期間の経過により消滅した。)

(安全配慮義務違反)

 A1 国と原告らの関係は、国が一方的に形成したものであり、これによって生じる社会的接触は、契約的接触であるとはいえないから国には、安全配慮義務は存在しない。また、企業との関係は、原告らの意思にかかわらず、会社が一方的に生じさせた労使関係であり、「事実上の支配ないし管理関係にすぎない」ので、企業にも安全配慮義務を認められない。

 B 新潟港運と原告らの間には、新潟港運と日本港運業会(新潟華工管理事務所)との間の中国人労働者使用契約書を媒介とした労働契約に類似する法律関係が存在したと認めるのが相当であり、これに基づく特別な社会的接触の関係の存在により、新潟港運は、信義則上、原告らに対し安全配慮義務を負っていた。そして、気象状況により認める客観的な環境等からすれば、安全配慮義務違反は明らかである(なお、同判決は国の安全配慮義務・同違反も認定している。)。

 A2 会社は、本来締結すべき雇用契約を自らの事情ないし恣意で締結しないまま、原告らを直接支配・管理し、自らの提供する道具等を使用させながら、これを指揮・監督して、雇用契約が締結されたと同様に労働の提供を受けたのであるから、両者の間には、債務不履行責任を負わせることを相当ならしめるに足る、直接の契約関係があると同視しうるような関係が存し、「ある法律関係に基づいて、特別な社会的接触の関係に入った当事者」に当たる。企業は、安全配慮義務に違反したので損害賠償義務がある(同判決は、国の安全配慮義務については否定した。)。

(消滅時効の起算点および援用の是非)

 A1 (国、企業に安全配慮義務を認めなかったために、消滅時効(民法166)の援用の判断をせず) 

 B 消滅時効の起算点の解釈については、単に法律上の障害がないとするだけで、企  

  業に対する損害賠償請求権は、1955年11月末日の経過によって消滅時効が完成した、とする。しかし、時効の援用に関しては、社会的に許容される限界を著しく逸脱したとして援用を権利濫用とした(同判決は、国が消滅時効の援用を法廷で主張しなかったことから、仮に援用しても企業についてと同様、援用は権利の濫用とした。)

 A2 消滅時効の起算点については、原則として事実上の障害は含まれないが、事実上の障害であっても、権利を行使することが、現実には期待し難い特段の事情がある場合には、その権利行使が現実に期待することができるようになった時以降において、消滅時効が進行すると解する。そして、前述の公民出国入国管理法が施行された1986年2月1日以降は、原告らによる権利行使を現実に期待できるようになり、同日から起算すれば、すでに10年の消滅時効は完成しており、会社による消滅時効の援用も、特段の事情は認められず、信義則ないし権利濫用にあたるとはいえない。

   以上、中国人強制連行事件に関する主要な法的争点についての3件の判決を分析したところから明らかなように、これらの判決例は、軌を一にするところがなく、一見してバラバラの状態であると言って過言ではない。原告側の主張が、これら3件については、殆ど同一であることを考えれば、原告側の主張方法にバラつきの原因があるのではなく、裁判所の法解釈の不安定さにその原因を求めざるをえない。しかし、これらを並列的にとらえず、特に高裁判決であるA2に至る判断内容の展開からすれば、大きな流れとしては、中国人原告が勝訴しうる法律構成としては、企業の安全配慮義務違反の構成がもっとも固いものであり、その際の結論を左右するものは、消滅時効の起算点および時効援用の濫用の是非を問う領域ということになると解される。

強制連行・強制労働が国、企業の不法行為を構成することは、すでに裁判所の共通認識として定着しつつあることは前述のとおりであるが、合意規範である国際法上の概念ならばいざ知らず、国家の統治作用に基づく国内法においては、法的安定性それ自体は重要な要素である。民法724条後段を長期時効ではなく、除斥期間とする性質決定を前提とする限りは、明文規定に依拠すべきとするBの判断基準は狭すぎ、福岡高裁(A2)が分類した考慮要素を基準にするとしても、すべてをクリアすることは困難であろう。より柔軟な時効の判断の中に中国人被害者が置かれた実態を可能な限り取り入れる解釈方法が現実的である。不法行為責任はそれとして歴史事実に即したストレートな構成であるから、企業・国の道義的・政治的な場面での活用がなされるべきものと考えられる。

   前述のように、2004年5月24日の福岡高裁判決は、原審での原告らの勝訴部分をも取り消して原告らの全面的敗訴となった。最初の高裁判決として期待が大きかっただけに、中国人強制連行事件訴訟は見通しを失ったかのような状況となった。しかし、福岡高裁判決に対する失望感が底を打つまえに飛び出してきたのが、Cの西松訴訟の広島高裁判決である。広島高裁判決は、中国人強制連行の歴史的経緯や強制労働の実情を他に比類するものがないほどに詳細に事実認定し、その前提に立って初めて企業の安全配慮義務違反を認めた原審広島地裁判決(2002・7・9)を基礎にして、更に事実認定を付加したうえで、改めて安全配慮義務違反を認定し、被控訴人会社(西松建設)の時効援用を「著しく正義に反し、条理に悖る」と否定した。この2度目の広島高裁判決によって、安全配慮義務違反+消滅時効援用の否認の法的枠組みが最も現実的で被害者の法的請求を実現する水路であることが一層明らかになったと考えられる(拙稿「中国人強制連行・広島高裁判決が開く水路」世界2004年9月号参照)。

花岡和解の示すもの(最後に)

 花岡和解の成立によって示された一つの重要な意義は、中国人強制連行事件に代表される戦後補償問題の解決の現実的可能性を示したことである。和解成立以降の基金事業の進展は、中国国内での事業展開であるが、わずかの反対派の存在を生み出しただけで着実に進み、多くの被害者やその家族からの信頼を醸成しつつある。前述した訴訟の動向も中国人強制連行の歴史事実を認識しうるに至った裁判官の苦闘の軌跡というべきであり、法理論上も(少なくとも対企業との関係では)被害者の賠償請求権の論証が現実的に可能になりつつある。それだけに、訴訟上の解決をはかる場合においても花岡和解が追求した、暦史認識に基づく全体解決の方向性が具体性を今後帯びてくることが期待される。

 「政冷経熱」という言葉に象徴されるように、日本と中国の結びつきは、ますます必然となりながら、歴史認識の共有を阻害する日本政府や一派の人々によって、日中間の暗雲が立ち込める情況が存在している。中国国内においても、小泉首相の靖国神社参拝等に民族感情を刺激されるままに活動する若い世代の動向もある。しかし、日中友好は、何物にも代えがたい歴史の教訓であり、日中関係が密接になればなるほど相互の信頼回復を妨げる底調として潜在している「歴史遺留問題」の解決の重要性は高まるのである。戦後補償問題の解決は、現にそうであるように、日中の非政府レベルの共同事業の精神で実現する以外にない。その結果は、花岡和解基金の活動に見られるように、被害者個人に利益をもたらすだけでなく、日中友好関係の基礎を作り出すという、より大きな役割を果たすことになるだろう。戦後補償問題の解決の努力なくしては、真の日中友好を展望することはできないが、日中双方が友好と平和への努力を惜しまなければ、この展望を切り開くことは決して不可能ではない。花岡和解は、この展望についてのひとつの啓示である。

以上